東京都豊島区立第十中学校吹奏楽部OB会公式サイト
ヒストリー 祝賀会 十中サウンド 卒業生
当時ブラスの女子生徒に恋心を抱いたことはありますか?
あるある(笑)本当にいっぱいいたよ。十中の女生徒というのは本当に素晴らしかったね。だけど残念なことに入学して3年たつと皆すぐに卒業していく。
消えていなくなるんだよね。それで、また一年生が入ってくる。本当に目移りがしてね(笑)。 でも、やはり心に残る人が何人かいるな。だけど、その人の名は言えないね。あの世まで持って行くよ。
公立中学校では長年にわたりひとつのクラブ活動を指導するのは難しいと思いますがご苦労されたことやエピソードがあったら教えてください。
一番苦労したのはね、その年にどんな素晴らしい一年生が入ってくるかということだね。これが一番気になったし一番の苦労だったね。 昭和30年代は男性が多かったので、いかに女の子達を吹奏楽に勧誘するかというのが一番難しかったよ。 今は逆ですよね、全国どこの学校でも男子生徒、男子生徒って集めるのに苦労しているようですね。
セルマーやクランポンの輸入楽器、1ドル360円の時代にとても高価だったと思うのですが資金はどのようになされたのですか?
十中のバンドが出来たのが昭和35年です。その当時は戦後まだ間もなかったので管楽器も、楽譜も指導者もいないといった時代でした。 だから、僕たちが楽器を買うときは浅草や神田の古道具屋へ行って旧海軍や軍楽隊の放出品などを買いにいって使っていました。 当時360円、今は120円前後でしょうか。たしかに高価なのですが、その当時僕は昭和28年に就職して、バンド始めるまでは実はビッグバンドに 入っていました。ですからまだその頃には相当に余裕がありました。で、やり始めるとこんな楽器があったらいいな、あんな楽器をいれたらいいな。 って思い出すんですよね。だから十中の新しい編成、その当時なかった楽器編成っていうのはそういう形で補って行ったってことです。 ※先生のポケットマネーによって当時の十中のいくつかの楽器は増やされていったようです。
十中の先生になっていなかったら何をしていましたか?
武蔵野音大を卒業して僕はクラリネットなんですけど、今のNHKが内幸町(今の日比谷公園の奥に会った時代)そこでずっとスタジオプレイヤーを やっていたんです。それでNHK交響楽団の練習生として入ったんですが、当時の武蔵野音大の初代の学長である直秋さん…福井直秋先生に 「是非これからは管楽器の時代だから管楽器の演奏指導を兼ねて豊島十中の教員に…」と僕は就職させられたんです。あの時分、豊島十中の 初代校長は武蔵野音大のこの福井先生の教え子だったんです。そういういきさつがあって武蔵野音大と十中は深い関係があっていろいろと 行き来をしていましたね。
練習のときの非常に厳しいお顔、また本番のときの仏様のような優しいお顔、これは意識して作られていたのでしょうか?
いーえ、とんでもない。腹の綿が煮えくり返りそうでしたよ。そりゃぁもう(笑)。 でも、ひとつ皆さんに言いたいのは僕は”大会の前の日ですべてが終わった”といつも思うんですよ。 ですから、ステージに立ったときには第一声を発したらあとはみんなにお任せだ…と。 最初の4小節が大切なんでそのイントロダクションの部分がうまくいったら、後はみなさんにお任せ。 顔はニコニコしてましたけど実はハラハラしているときもありましてね…。 演奏終わった後はステージの下手のところでね本当に胃が痛くてしゃがみこんでしまったような時もありましたよ。
1期〜23期までのベストメンバーを集めてコンクールの時間制限がなかったとしたら絶対にやってみたかった曲を教えてください。
ショスタコーヴィッチの「交響曲第5番」です。これを全曲やってみたい。 欲を言ってもうひとつ選べるならワーグナーの「さまよえるオランダ人」ですね。 だけど自分がやった自由曲は本当に思いをこめてやった作品なので悔いのないものばかりです。 一曲、一曲が生徒のみんなと一緒になって今年はこういうものを提案しようと言って自由曲を決めて行ったのでその積み重ねがひとつの 十中の大きな実績になったんです。
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