1.十中ブラスの思い出と酒井正幸先生とは・・・
私が先生から学んだものは、中学時代の3年間のみならず、その後の先生の活動を含めた先生の「生き様」そのものです。
30歳そこそこで、日本の吹奏楽に新しいサウンドを創りあげるという高い理想を持ち、それを自らのミッション(使命)として、中学校というスクールバンドを通じて、「確信」を持って果敢に挑戦し、自らやるべきことを実践し、大変な成果を挙げたことは、一人の人間としても尊敬し賞賛すべきものと感じます。
中学時代に、特に影響を受けたと感ずるのは、先生の高々と上げる「目標」、熱い「情熱」そして「実行力」です。
先生は昭和34年の4月にブラスを創設しましたが、当時は楽器が高価で貴重で、取り揃えるのも大変な時代でしたし、他方で、楽器に触るのが初めての生徒が殆どという状況での先生の挑戦でした。創部直後の5月の体育祭では、君が代行進曲1曲のみの演奏で通したり、3年生の修学旅行の出発式に品川駅で演奏したり、豊島区の各種演奏会や放送局主催の各種コンクールに出場したり、1年目から我々を演奏に引っ張り出す精力的な活動でした。その成果は、創部半年後の昭和34年秋の関東吹奏楽コンクールの都大会B組優勝、翌年の東京都吹奏楽コンクール第1位、引き続く関東大会2位という結果に表れました。ブラス創部3年目の目標は大変高く、全国大会出場でした。その年から東京都大会優勝校が全国大会に出場することになりましたが、結果的には東京都大会で長崎中学に負けて、涙を呑みました。
先生はそのことがむしろ幸運だったと仰っています。このことはずっと後になって先生から直接伺ったことですが、都大会2位の十中がギャルド・レピュブリケーヌ来日の歓迎演奏会に出場出来、先生がギャルドの音を聴いて、自ら求めていた音を見つけたからとのことでした。先生は、ギャルドの音楽性豊かなサウンドは、チューニング、奏法、楽器編成にあると分かったと仰っていました。当時主流であった軍楽隊調の吹奏楽に違和感を抱いていた先生にとっては、ギャルドに目標を見出し、先生の目指すべき道を「確信」したのではないかと思います。
しかし私の想像では、先生にとってギャルドを聞いて本当に新しかったのは、楽器編成によってサウンドが変わるということを目の当たりにしたことだったのではないかと思います。チューニング、奏法については、先生は初めから厳しい指導をしていたのですから。この楽器編成についても、当時トランペットを吹いていた私は、先生からコルネットを与えられ、一時コルネットを吹いていました。このことから考えると楽器編成ですら、先生にとって新しいことではなかったのかも知れません。むしろ、ギャルドによって先生は「確信」を得たというのが真相だと推察します。
この創部以来の3年間の練習は、正月3が日を除く毎日で、自主練習を含めた朝、昼、放課後、特に放課後は晩遅くまでの校則を免れての練習でしたが、先生の「情熱」が我々生徒の情熱に火をつけ、厳しい練習も自らのものとして、先生の「挑戦」、「実践」について行けたものと思います。
後に、「酒井メソッド」の指導書を出版され、ビデオを発行されたと聞いた時には、新しいサウンド作りの基本的な方法まで確立されたことに感服しました。目標を達成するための手段をも自ら創造し、シナリオをしっかり描いておられたことと想像します。その上での実践であったからこそ、大きな成果が挙げられたのだと思います。
加えて、指導の現場の経験を踏まえて創り上げたその手段・方法を積極的に世の中に広めたことは、ただ単に自らのものにしておかず、広く日本の吹奏楽界、社会を見据えた活動として素晴らしいことと感じます。
中学生といえばまだまだ子供相手の音楽の指導、学校生活の指導で、当時の環境を考えると並大抵のことではなかったと思いますが、先生は指導が厳しかった反面、包容力の大変大きな方でした。その包容力は、普段の先生の言動から想像すると、吹奏楽部として、先生は常に生徒との一体感を持っておられたからこそと思います。
2.「豊島の響」発足とその活動
数年前から先生に親しく接する機会が多くなり、改めて酒井先生の偉大な功績を認識し、掛替えのない教えを受けた先生へのご恩返しをしたいという気持ちもあり、先生の偉大な功績を何とか形に表したい、残したいという気持ちを持つようになりました。
「豊島の響」の活動は平成18年の初めから開始されましたが、その前年から同期(3期)の人たちや、前後の期の人たちと意見を交わし、記念誌とDVDの制作、喜寿祝賀会の開催の三部作の構想が出て来ました。後に「豊島の響」の活動の過程でCDの制作が加わり、四部作となりましたが、いずれも短期間のうちに、実施、完成することが出来ました。沢山の十中ブラスOBが活動に加わってくれましたが、皆他に本業としての仕事を持ちながら、正にボランティアで労力と時間を捻出し、知恵を出し合った活動でした。それぞれの成果物は、教え子たちの文字通り「手作り」でしたが、労力、時間、資金等の多くの制約の中で、素晴らしいものに仕上がったと感じています。先生ご自身が喜んで下さって、この上ない喜びを感じました。この活動と成果は、正に我々教え子たちが、「情熱」「実践」「一体感(連帯、協力)」という、先生から学んだものの実践に他ならないと感じています。
3.私のボランティア活動
今私は、障がい者の自立を支援するボランティア活動に携わっています。具体的には、NPO法人日本バリアーフリー協会が主催する「ゴールドコンサート」を手伝っています(既に、この「豊島の響ホームページ」内の「豊島の響ニュース」2006.8.21付で、第3回ゴールドコンサートが紹介されています)。このコンサートは、障がい者自らの団体が主催していますが、音楽の分野で障がい者の自立を支援する目的で、音楽性を競うコンテスト形式で開催されています。
この活動に携わり始めたのは、平成16年の夏からでしたが、一つの縁でゴールドコンサートの活動を知ったのが切っ掛けでした。私自身は音楽が好きで、歳を重ね様々な経験を積んで来ましたので、多少なりとも社会にお返しが出来ればとの気持ちから、躊躇なく素直にこの活動に入って行ったものと感じています。この面でも酒井先生の影響を感じています。
ゴールドコンサートに出場してくる障がい者は、全国から多数の応募があり予選を通過してきますが、技術的レベルもさることながら、困難を克服してきた人たちの奏でる音楽は、心に響き、文字通り感動的で素晴らしいものです。これこそ音楽の本質と感じます。十中サウンドに通ずるものと感じています。
私自身は、ゴールドコンサートの企画、運営、実施の全般についてお手伝いをしています。
ここでも、先生から学んだ「情熱」「実践」「一体感(連帯、協力、思い遣り)」が重要なこととして心掛けています。
4.晩年の先生の言葉
先生から直接に伺った様々なお話の中で、私の脳裏に焼きついている言葉があります。
平成18年11月に「酒井先生の喜寿を祝う会」が開催されましたが、豊島十中のOBと明豊中学校の合同演奏が実現しました。この準備の過程で、酒井先生に「明豊中で十中サウンドを復活したいものですね。先生の教え子で音楽の指導者が沢山いるので、可能と思いますが如何ですか。」と問い掛けたところ、先生は「十中サウンドは今や日本中に鳴り響いているよ。今の時代は、オンリーワンを目指すべきだよ。」と仰っていました。
私は、先生が十中でブラスを始めたときの大きな目標をご苦労を重ねた上で達成したことに対する達成感を覚えておられると感ずると共に、「オンリーワンを目指せ」の言葉に、十中サウンドに囚われないサウンドの追求に、心の大きさと更なる音楽性の追求に、心を動かされました。
晩年に頻りに仰っていた「オンリーワンで良い。オンリーワンを目指すべし。」の言葉は、音楽の指導者としても、また教育者としても、先生が偉大であったことを最も良く表す言葉と感じます。
先生は既に他界されてしまいましたが、今も尚私達の心の内に生き続け、十中サウンドがますます大きく鳴り響いていることを感じます。
酒井先生、ありがとうございました。 (了) |