八田先生が十中にみえたのは昭和37年からである。前年、ギャルドの招待演奏のとき、十中の演奏を聴いたのがきっかけだった。
八田先生は大森六中のときからブラスをやっており、その後、日比谷高校そして中央大学を卒業する頃には、自分もバンド指導者になりたいと思っていた。そして十中に来てその指導法を勉強したい、ということから始まった。それからは、十中のコーチといえば八田先生だった。僕は昔から良いバンドを作るには指導者の他に、良いコーチ、そして良い楽器屋さんが必要と考えていた。この三つが協力しあうことでバンドはもっと良くなる。
僕がこの編成、この曲でと言うと八田先生はアレンジを担当、また、それを十中に合うように組み替えていくという作業をやってくれた。そして、手先が大変器用な人で楽器の修理がうまかった。十中の自由曲に関して八田先生はいろいろな形で係わってきた。
僕は八田先生にバンドを任せた時代があった。どういうことかというと、その頃、十中の卒業生が高校で活躍できる場がなかった。だから豊島区にお願いして「豊島区吹奏楽団」をつくった。最初は僕もやっていたが、やはり十中と両方はできないから、八田先生に「豊島区吹奏楽団」を全て任せた。そして、それが十中のサウンドをそのまま引き継いで、素晴らしい演奏をしてくれた。要するに大人の演奏をしてくれるようになった。市民バンドとしての非常に高度なものを追求していってくれるようになった。そういう点では理想的だった。僕にとって、そして「豊島区吹奏楽団」にとっても八田先生を失ったことは大きな痛手であり、今でも、彼がいてくれたらと思うことがたくさんある。
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