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◆記 録◆
第27回全日本吹奏楽コンクール金賞(1979.11.3 普門館)

課題曲:「フェリスタス」/青木 進作曲

自由曲:三つの交響的素描「海」より“風と海との対話”/C.ドビュッシー作曲

 
 
 
  表彰台
 ドビュッシーの「海」は、この時のメンバーだからこそできたんだね。“嵐の場面”のあのダイナミックなシーンをよく吹き切ったよ。テクニックと体力、これが両方ないとできない。この「海」は「シェヘラザード」と並んで十中のやった作品の中で、みんなが追っかけた曲の一つだね。
■薄氷の金賞79年全国大会
横堀辰也

 ステージが終わった。記念撮影が済み、片付けが一段落したところで、酒井先生から3年生に集合がかかった。先生は開口一番、「結果は覚悟しなさい」。

 はっきりこう仰った。

「今年の演奏の結果はどうなるか先生にもわからない。どんな結果が出ても、騒がず、落ち着いて受け止めるように」。

 しばしの沈黙つい30分ほど前にステージで起きたことが、3年生全員、それぞれの心の中でとめどなくプレイバックしていた。都大会と同じ箇所での大ミス、最後の音が途切れたソロ…私自身、自由曲での致命的と言っていいミスの箇所がずっと耳の中で鳴り続けている。

 演奏が終わった瞬間から、女子のほとんどはもう涙ぐんでいる。先生の話を聞いている間にそれがすすり泣きに変わってゆく。男子は全員押し黙っている。全国大会のステージを終えた安堵感などはどこにもなかった。全員が「連続金賞が途切れるかもしれない」という恐怖とプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。

 出番がかなり後のほうだったため、発表までの時間はそう長くはなかったはずだが、私たちには朝から本番までの時間よりも長く感じた。ずっと押し黙ったままの者、ずっと泣きじゃくっている者、いつもより明らかに不自然な明るさで喋る者…それぞれがそれぞれのやり方で重苦しさに耐えようと必死だった。

 さあ、発表である。この年、酒井先生は今津中の得津先生と共に永年出場指揮者表彰を受けられた。両先生がステージ上で抱き合い、肩を組んで退場された姿が未だに目に焼きついている(ちなみに得津先生はこの年が最後の全国大会となった)。そのときだけは皆心なしか表情が明るくなったが、その後はまた重苦しい空気が支配する。

「○○中学校、銀賞」「○○学園中等部、金賞」…出演順に賞が発表になり、普門館の広い客席のあちこちで歓声とため息が飛び交う。刻一刻と発表が近づくにつれ、皆下を向き、祈っていた。神か、仏か、いやなんでもいい、とにかく何かに祈っていた。私も両拳を握り締め、唇を噛み締めていた。

「豊島区立第十中学校…」3年生だけでなく、ほとんど全員が「ウウッ」という声にならない押し殺した声を上げた。「…金賞!」。

 ずっと泣いていた者も泣いた。泣いていなかった者も泣いた。「覚悟しなさい」と言われていた結果が金賞だった喜びと、緊張の糸が一気に緩んだその安堵感で、空気が一気に柔らかくなったのが鈍感な私にもはっきりとわかった瞬間だった。

 私の期は最低でも年に1回は集まる機会を設けているが、そのたびにこの日のことは語り草となる。それぞれの人生の中でも、最も緊張した日の一つであろうこの日のことは、生涯忘れられないことであろう。

■アメリカ演奏旅行「総立ち」の感激
 

 1980年3月25日、卒業式を終えたばかりの私たちを含めた総勢70数名は、アリゾナ州フェニックス近郊のテンピ市にあるアリゾナ州立大学で開かれる「第2回日米吹奏楽指導者協会合同会議」に参加するため、開港間もない成田空港を飛び立った。先日、私たちの同期80数名が集まった大同期会が開かれたが、「この日に見送りに行った」という吹奏楽部以外の同期生が何人もいた。吹奏楽と縁のない連中がおぼえているほど、強い印象を与えていたことに驚いたことである。

 長時間のフライトの末、アリゾナに到着。やはり若さだろうか、それとも初めて見る異国への好奇心が勝ったのか、不思議と「時差ボケ」はあまりなかったように記憶している。さっそくホテルの食堂を借りて練習。といっても砂漠の中の街だから遊び場所などなく、練習しかすることはなかったけれど。

 私たちの出番は2日目の夜。八田先生によるいつものチューニング。「普門館に似ている」といわれたホール。不思議と全国大会の時のようなイヤな緊張感はなかった。

 プログラムは順調に進み、そして、全国大会で手痛いミスを犯した「海」である。プレイバックを聴くまではどんな演奏だったかはわからなかった。ただ、自分がミスした箇所の「リベンジ」は果たした、という手応えだけはあった。

 まさに「アプローズ」というにふさわしい割れるような拍手。1人、2人、5人、10人…次々に立ち上がる人々。やがて場内は総立ちに…次の曲は客演指揮者であったが、酒井先生は何度かステージに呼び戻された。その後も場内はしばらくどよめいていた…。

 この日のこともいまだに私たちの同期会では良く語り草になる。子育て中の何人かは、子供に語って聞かせる。あの日の録音を聴きながら…。

 

《裏話》

 アリゾナでの本番を終え、ホームステイなど交流も行い、後はディズニーランドでのパレード以外は「観光旅行」状態でグランドキャニオン→ロサンゼルス(ディズニーランド)→サンフランシスコ→ホノルルと移動した私たち。グランドキャニオンからは半日がかりでラスベガスまでバス移動。バクチの都に中学生がご縁があるはずもなくすぐに飛行機でロスへ。この時のフライトが揺れたのなんの。航空王国のアメリカではこのくらいは日常茶飯事だろうが、飛行機に慣れない我々一行にとっては最大級の恐怖体験になった。

 ほうほうの体でロスにたどり着き、遅い夕食は中華料理。行きのJALでの機内食以来の「白いご飯」。しかし、長時間のバス移動と揺れまくった飛行機のおかげで、ほとんど全員がぐったり。せっかくの料理も食べられずに円卓の上の料理が軒並み余る中、私と1年下の尾上君だけは食欲旺盛。げんなりとする周囲を尻目に、デザートに出た本場のオレンジまできれいに平らげた。それを見ていた八田先生曰く「呆れたよ!?」。

 
全日本吹奏楽コンクール
アメリカ演奏

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