東京都豊島区立第十中学校吹奏楽部OB会公式サイト
ヒストリー 祝賀会 十中サウンド 卒業生
昭和34年に部員16名で発足した豊島十中吹奏楽部は、当時の吹奏楽の主流であった力強い音をリズムに乗せて響かせるという、軍楽隊調の奏法が基調となったスタイルを踏襲しながらコンクールに挑み続けていた。 そんな中、昭和36年に吹奏楽の演奏レベルとしては「世界最高」ならぬ「世界最強」と称されるフランスの共和国親衛隊音楽隊であるギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団が初めて来日した。その軍楽隊らしからぬ気品ある音楽作りと透き通ったサウンドは、当時の日本の吹奏楽界に大きな影響を与えたが、十中吹奏楽部顧問である酒井正幸先生もその一人であった。
酒井先生はギャルド吹奏楽団の演奏を聴き、今まで耳にしていた吹奏楽のサウンドが楽器編成によって変わることに驚きを覚え、そしてそのサウンドを活かし音楽性を重視した吹奏楽の可能性に目覚めたのである。 同時に先生は、十中が当時オーソドックスな楽器編成の基で力強く鳴り響くサウンドと、確かな演奏技術によって確固たるスタイルと地位を日本の吹奏楽界で確立している関西の今津中学校にコンクールで敗れる中で、今津を越えるためには今津とは違う新たな方向性に基づくサウンドスタイルが必要であることを痛感していた。 ここから後に「十中サウンド」と称される豊島十中独自の音作りへの探求が始まった。 自ら目指すべきサウンドの方向性を見いだしたことから、それを実現すべく、まず昭和37年に、それまで音程の面で扱いが難しいといわれていた「E♭クラリネット」を編成に加える事から始まり、その後昭和40年には「ソプラノサックス」「フリューゲルホルン」、昭和41年には「ビブラフォン」「マリンバ」、昭和42年には「バストランペット」と、次々に新しい楽器を導入していく。 新しい楽器を取り入れるためには同時にそれを活かすための独自の編曲も必要であったが、そこには当時吹奏楽部のコーチとアレンジを担当していた、故 八田泰一先生(平成5年7月逝去)の存在があった。 奏法の面に於いては、いわゆる軍楽隊調の奏法ではなく、より高度な音楽性を表現するために、常に音に余韻を持たせることを基本にした奏法とフレーズを長く一息で吹く、という事が生徒に指導された。それを実現するために、生徒に対しては徹底的にロングトーンの練習が行われたが、その練習のもうひとつの成果として、吹き出される音、すなわち「音程」、「音質」、「音量」が安定し、中でもピッチコントロールに必要な「音程」が定まることになったことが大きく、その事は合奏した時にサウンドが一定し、正確な和音が生まれる事になった。 さらに酒井先生はバンドに対するチューニングの重要性にも着目し、チューニングの為のオルガンのピッチを気温の変化でピッチが変化する管楽器に合わせる、という発想から、当初はリードを切ってピッチを調整した足踏み式オルガンを夏用と冬用として使い分けて用いていたが、昭和40年代に入り、グループサウンズの流行と共に出回り始めたピッチコントロールのついたオルガンを用いるようになった。 また響きについても和音の響きの美しさを損なうことになる平均律ではなく、和音が完全に調和するときの周波数比で定められた純正律を用いる事を考えたが、当時は純正律のオルガンというものは無く、そのために2台のオルガンを用いて純正律に基づくチューニングが行えるような工夫もした。 このピッチコントロールができて、しかも純正律と平均律の音が出せるオルガンがあれば、という希望は楽器メーカーであるヤマハに伝えられ、その事が後に多くのバンドでチューニング用機材として用いられる事になる「ハーモニーディレクター」の開発に繋がっていった。 そのような努力と工夫の中から、吹奏楽をより音楽性の高い音楽として聞かせる事を求めて、ゆったりとしたフレーズとハーモニーの流れと透明感のあるサウンドを合わせ持った独自のサウンド、いわゆる「十中サウンド」が生まれる事になったのである。
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